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横内由可連載第5回 引退したアスリートがセカンドキャリアで成功するために必要なこととは

 横内由可と申します。現役時代は体操、クレー射撃と2種目で日本代表として国際大会に出場していました。今回はアスリートであれば避けることのできない「引退」とその後の「セカンドキャリア」について書かせていただきます。

 

この秋はプロ野球の世界で華々しく活躍した選手たちが引退を決断しました。広島・新井貴浩選手、中日・岩瀬仁紀投手、浅尾拓也投手、荒木雅博選手、巨人・杉内俊哉投手、山口鉄也投手、西武・松井稼頭央選手、独立リーグ・栃木ゴールデンブレーブスの村田修一選手…自身のパフォーマンス、体の状態、チームでの立ち位置など色々考え抜いた上で現役生活に終止符を打ったのだと思います。

 

 ちなみに女子体操選手の引退の時期は高校卒業時、または大学卒業時が一般的でした。競技の実績によって推薦入学させて頂いている場合が多いのですが、ケガなどにより志半ばで夢をあきらめざるを得ない選手もたくさん見てきました。環境の問題、体の問題などによってどんなにその競技を続けたくても早かれ遅かれ引退する日がやってくるのです。

 

 私は2種目の競技経験があるので2度の引退を経験しました。1度目は体操を引退した18歳の時。そのきっかけは体が思うように動かなくなり、試合での失敗も増え、成績が落ちてきたことでした。それまで24時間体操一筋だった私は「体操を離れたら自分という存在を失ってしまうのではないか」という恐怖と悲しさから毎日泣いていました。そんな時に日本では18歳からはじめても遅くないクレー射撃という競技を知り、私の沈みきった心に光が差しました。一般的に想像するセカンドキャリアとは異なりますが、2種目に臨む時に考えたことは「体操をやってきたときのようにゼロから同じ努力をしよう」ということでした。この時点で体操の華やかな舞台に立っていた人から「普通の人」へと精神面においても引退をしました。

 

 2度目はクレー射撃を引退した31歳の時でした。クレー射撃はお金と時間が必要な競技なので、スポンサー企業との契約が切れたタイミングでの引退でした。この時点で競技に対しての未練は全くなく、20年以上アスリートとして多くの方々に支えていただき競技生活を続けることが出来たことへの感謝の気持ちしかありませんでした。そして、いよいよ本当の意味でのセカンドキャリアとの直面です。「自分に何ができるのか?」、「今まで得た経験をどのように社会や人々の役に立てるか?」など不安は誰しもよぎるのではないでしょうか。

 

 私が選んだ道は人々の健康を支えることができるトレーナーという職業でした。一般的にアスリートは健康というイメージが強いのですが、実際は健康の域を超えた限界に挑戦しています。それゆえ、トレーナーとしての知識を基礎からきっちり学ぶ必要がありました。またゼロからのスタートでした。仕事中に何かわからないことがあれば躊躇することなく年下であっても教えを仰ぎました。これはアスリートであった自分を再度、精神面においても完全に引退しなければできないことでした。

 

 これまでに多くの引退したアスリートをみてきましたが、セカンドキャリアでつまずいている人に共通する点は精神面でアスリートを引退できていないのです。競技生活しか経験していないその視野はとても狭いものです。新たな世界で生きるにはプライドを捨てる勇気が必要です。それがうまくできたときに過去のアスリートの経験が生きてくるのです。人生においてアスリートでいられる時間はほんの一時です。より良く生きるためには常に学ぶことが必要となります。学びの面前においては過去の栄光やプライドなど全くもって無意味なものなのです。

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横内由可(よこうち・ゆか) 1977年3月21日、東京都生まれの41歳。 9歳で器械体操を始める。13歳の時に朝日生命体操クラブへ。すぐに全日本選手権大会で個人総合7位入賞を果たし、高2年時にインターハイで個人総合2位に。同年にドルトムント世界選手権に出場し、段違い平行棒の降り技で新技D難度の「ARAI」が誕生。技に自分の名前を持つのは日本女子体操史上3人目の快挙だった。18歳で異種目のクレー射撃へ転向。日本代表で活躍し、02年の釜山アジア大会では団体で銅メダルを獲得。現在は異色の経験を活かし、トップアスリートの人生を応援する「トップアスリート・コンシェルジュ」、パーソナルトレーナーやスポーツコメンテーターなど幅広く活動している。